寛容になったと言われた。

 

穏やかで寛容になったと言われる。

理屈っぽい思考回路をしているので、自分が正しいと思えることは、ある程度理屈が通っていると思う。でもそれは、自分の目線から見た話であって、他人から見てどうかはわからない。

物事に直面し、理屈を考え、納得するその思考を繰り返すのが習慣化していた。だからこそ、自分が納得すれば他人からも正しいよね、と言われることが多く、承認された経験が多いからこそ自分が信じているものは正しいものだという発想に陥っていた。

自分のものさしで正しいと思うものを認め、間違っているものを排除する。そんなことを続けていたら、ただ単に自分と違う意見を認めず攻撃する人になっていたと思う。

会社に、一生懸命働いて職場で自己実現して行こうという発想を最初から持ち合わせておらず、それが受け身な振る舞いとして現れている人がいた。

対して自分は、職場での自己実現を志向していないのは同じだが、労働者は無価値で脆いものなのだから、誰よりも優れている状態になろうと、恐怖心からではあるが仕事では積極的であろうとした。

だからその態度を軽蔑していたのだが、結局はどう振る舞おうがその人の勝手でしかない。人生をどう捉えて、どう行動しても、結果に責任を負うのはいつも自分であって、他人にとやかく言われる筋合いはない。

自分に自分なりの正しさがあるように、他人にも他人なりの正しさがある。それを視界に入っただけで攻撃することに、無条件な正当性を与えることは出来ない。自分の直接の利益を脅かすのであれば違うが、大抵は自己満足でしかない。人を無意味に傷付けることを、俺は許容しない。存在を認めることをベースにする、そういう緩やかな態度への変遷を感じる。

優しくなった?いやいや、他人は変えられない。人は脆い。それをわかれば他人への干渉は無意味だし、怖い。

他人から見れば、穏やかで寛容になったと言われる原因である。