20代の目標(労働編)

 

最近、自分自身が労働へ不満、不安を感じること、他人のそれも聞くことが多かったので、自分は労働で何を得ようとしていたのか改めて考えた。

なぜ働こうと思ったかと聞かれれば、そういうものだと思っていたというのが正確な回答である。生産手段も目ぼしい資産も持たない家庭に育ったので、大人になれば勤めに出て金を得て生活をするものだと思っていた。だから労働で何を得たいなど考えたことはなかった。あえて言うなら金を得て生活するためであった。

働くことの意味として途中で加わったことは、日々の大半を占めるのだから、面白さや達成感が欲しいというものであった。長年かけて何かを成し遂げたいという感覚に近いものであるかもしれない。

実際働いてみて感じることは、まず金銭面で言えば生活するには過剰なほど給料があることである。生活するために働くという考え方では、この先も懸命に働き続けるインセンティブなどすぐなくなってしまうのではないかと感じている。

精神面で言えば負荷が重すぎる。ほとんどは人間関係である。合わない人、害を及ぼす人とは不利益をもたらされるから関わりたくない。なのに関わらないとそれはそれで不利益を与えられがちなので、何これ詰みゲーじゃんっていう感じ。思っていることを黙っている、反対に思ってないことを言う、そういうことが出来ないしやりたくないのは、向いてない部分と自覚している。

もちろん精神面では悪いことばかりではなくて、知らないことを知ること、出来なかったことが出来ること、その過程は知的好奇心を満たして新鮮な気持ちにさせてくれる、学生時代によく感じたあの喜びとほとんど変わらないものであった。ただ、これのように瞬間では喜びを感じることはあれど、続けさせてはくれない。

会社は、労働者の希望と能力と適性を鑑みて働かせるのではなくて、会社で求められている職務に取り敢えず人をあてがうだけである。当然と言われればそうなのだが、わざわざ聞くそぶりを見せられるし、わかった、希望通りにするなどと返答するから期待してしまうのは当たり前じゃないのか。

会社も承認欲求を満たしてやろうと考えているのであろう。期待してる、必要とされる、頼りにされている、そんな言葉を言われる。でも、自分の求めているものと違う限り不満を抱く心が止まることはない。

この不満をなくすために、会社に主張し続けるのは無駄である。なぜならそれは今までもして来たし、期待させるような回答をしておいて果たさないのが会社である。そうやって誤魔化し続けるつもりなのである。

もう会社がそのつもりならば何も変わることはない。だから自分は、今の勤め先のまま会社員として自分の期待や要望を叶えてもらおうとするのではなくて、労働者としてその環境に身を置くことを許されるようになろうと思う。

そのためには自分の望む環境に移ろうとすることであり、今の勤め先ではそのための経歴だけ得ようと考える。

学生時代から会計に関わって来たのだが、会社で経理業務に携わるうちにより興味が湧いている。"真実を記録する" という考え方、目に見えないものよりも目に見えるものの方が好きな感覚とも合致して、理論を学ぶのも面白い。決算書を見て企業活動を想像するのも楽しい、自分ならどうすればいいか考えるのも楽しい、人に示すのも楽しい。出来ればこれにずっと関わって行きたい。

今の勤め先を辞めて他に行くとして、立派(に見える)な名札は下げて行きたい。「一部上場企業で決算業務に携わり、日商簿記1級を持っています。公認会計士対応も経験あります。」これだけで随分と輝いて見えるのではないだろうか。その名札で自分の可能性、行く先を広げることを20代の目標にしたいと思う。

人は人を名札でしか判断出来ない。それを変えることは出来ないから、人が判断する部分が自分の望む方向性において避けて通れないならば、しかたなくであっても立派な名札をぶら下げるようにしかないのである。それはあまり自分が好むようなやり方ではないのだが、最後に自分が労働に求める面白さや達成感を味わうために必要ならば、受け入れようという思いである。