25歳の今、働く方向性として思うこと考えていること。

 

概ね3年置きに同期が辞めて行く波があって、そのくらいの周期が自分を見つめ直す機会なのかなと思う。物事に挑戦して、改善して、結果が出て考えるのが大体そのくらいの期間になるのかもしれない。自分も3年目と6年目が終わったタイミングが一番悩んでいた気がする。

 

悩む原因としては、元来働く意味をあまり見出せていなかったから、働くモチベーションをどこにするのか、働くにあたって何をしていいかがわからなかったことがある。生活のために働くのだとはさすがに思えなかった。自分が生活に求めるものは低く、もらっている給料の相当分が余る状況は非常に早い段階で生じていたからだ。もっと勤務日が少なく、時間も少ない仕事でも十分であるならば、今の会社に勤める積極的理由はどこにあるのかわからなかった。

模索する中でやりがいを得るため、自分が納得出来るまでやることを課した。業務は徹底的に調べて学び、相手が誰であろうとも恐れず意見した。目的が自分が納得出来るまでやることであれば、誰に何と思われようとも関係なかったからこそ大胆に振る舞えたのだと思う。その甲斐もあり、習熟度はかなり高くなり、職場からの信頼も得ることが出来た。しかし、歯に衣着せぬ発言は一定のヘイトを集めていたことも事実で、それが人事上不利に働いてしまったことは強い不満として残った。

自分が強い不満を抱いていることには驚きを感じた。金のために働くことは出来ないと思っていたが、その金のことを脅かされるに至って重要視していたことに気が付いた。

株式を中心に金融商品への投資を行っているが、その面白さとは思考と行動の結果が数字ではっきりとわかることだ。金という数字で表せるものを追求することの面白さは何事にも代え難いもので、労働においてもその基準は持っていたのだ。納得出来るまでやることは、そうでもしないとモチベーションが保てないから意識していたことで、不利益を被ってまで優先する事項ではなかった。

 

自分が目指しているものとは、人生を費やして取り組みたいことは未だ見つからないことを鑑み、興味あること、やりたいと思った気持ちを金銭面で諦めることは絶対にないように資産を積み上げて備えることである。労働もその方向に合致すべきである。

労働者として利益を得るために大事なことは、良い仕事をすることではなく良い駒となることだと考えている。労働者は会社に雇用されているが、直接仕える上司が評価を決め、評価に従って処遇が決まり、処遇によって給与が決まるからだ。

人事評価は主に能力と成果によって決められているが、人が決めるものであるから上司の主観を除くことは決して出来ない。人の合う合わないは努力では改善出来ないことが多く、結局は相性の問題になってしまう。つまりは頑張りが認められて評価されるものではなくて、たまたま合う人間が評価されるただの運である。大した成果もないのに非常に高く評価してもらった経験も、その逆も経験した自分なりに強く感じることはそんな理不尽な世界。

だが、だからと言ってガチャが上手く行くようにお祈りするだけじゃ何も変わらない。幸いなことに能力を測る方法として学歴や資格を持っていることは社会一般にあって、勤め先もそこはしっかりと評価してくれる会社。資格取得は適性はあるものの、本人の努力次第な部分が大きい。自分の出来ることは、運要素で一喜一憂するのではなく努力で何とか出来る範囲を何とかし、労働での利益に結び付けて行くことではないだろうか。

こんな運ゲーやってられるか!と自暴自棄になるのは簡単だけど、そんなことしたってゴミみたいな毎日を送るのを甘んじて受け入れる選択をしたのは自分なのだし、明日を変えて行く努力だけは忘れてはいけないと思う。